狗神
の森 2


「彼」は、あえて、その巨大な口にくわえた「咎人」を食い殺しはしなかった。
己が犯した罪に見合う罰を与えるために。
「彼」の牙による瞬時の死を許すつもりはない。


が、意識を取り戻した若い男は、暴れるでもなく、「彼」の顎に銜えられたまま、再び印を結び始めた。

─こやつ。忍か。

攻撃するための術でない事はすぐに分かった。


燃えさかる深紅の壁。
その直前に、「彼」は男を放り出す。

受け身をとることもできずに転がった男は、途中だったらしい印を切り続けた。

…っ!!


短い呼気とともに手を打ち付けると、目前まで迫っていた津波のような炎の前に、轟音とともに立ち上がった木々の巨大な壁。
押し戻すように次々と立ち上がっていく。



─木遁忍術……こやつ…柱間の…眷族か…?


「彼」が咥えた傷からあふれる出血で、その男の白い装束は赤く染まり始めていた。
しかし、彼は木遁の防壁にチャクラを流すことを辞めず、荒い息をしたまま、ひたすら木錠壁を広げて炎をおさえこもうとした。

命の行く末を握る自分に背を向けたまま、何の頓着もなく、ひたすら、炎と戦う若い男に、とうとう「彼」は好奇心を起こした。


─何故、炎を止めようとするか。

返事を求めるでもなく、そう問う山神に、思いもかけず、男が独りごとのように答えた。


「……失ってはいけないものを…守る…ため…」




◇◆◇




耳元で、帰還を命じる声が悲鳴のようだ。


うるさげにマイクの音量を切ると、あっさりと外して捨ててしまい、カカシは防火用のマントを脱ぎ落した。
フード部分を切り裂くと、懐から出してやった子犬の背を覆ってやる。

煙から逃れたことで、仔犬は驚くほど速く体力を取り戻していた。

忍犬使いのカカシには、犬にストレスを与える匂いを纏わない。ゆえに、子犬は、…会う事が出来たら…親のもとに受け入れられるだろう。

残ったチャクラをさき、やけどの手当てをしてやると、仔犬を放してやった。


振り返り、振り返り、何やら未練気な仔犬に、いきな、と促してやる。




─テンゾウ…お前。どこほっつき歩いてんのよ。何、後輩のくせに、俺に捜させようっての?生意気よ、お前。



カカシはばさっばさっとマントに降り積もった灰を振り落として羽織り直すと、その場に座り込み、チャクラを練り始めた。
















◇◆◇





「あの二人の消息はまだつかめんのか!?」




綱手の怒号が、執務室に響く。




任務報告は、隊長、副隊長の二人が隊を離れていたため、部下の一人が代わって行っていた。
最悪の山火事になる恐れのあった山林火災は、カカシの水遁と、テンゾウの木遁がくいとめ、どうやら鎮火にむかったらしかったが。

鎮火の功労者二人が戻ってきていなかった。


「糧食も尽きているはずだ。あの二人は任務帰りだったんだぞ。…チャクラとて…」

綱手は口にだすつもりのないその独りごとを思わず声にしてしまっている。


「連れ帰った男は密漁者だとカカシは言ったんだな?」

そう火影に確認されたカカシの部下は、はっきりと頷いた。

「……イビキのところに連れて行け。」

低く押し殺した綱手の声に、男たちはこの女丈夫の怒りの深さを知った。








◇◆◇







ちょっと無理しすぎたかな。




焼け残った巨木の根元に体を預け、足を投げ出すように座ってカカシは緩慢な動きで空を見上げた。
本来ならば、鬱蒼と茂った木々の枝に遮られて見ることのできないはずの星空は、まるで(むくろ)のような木々の黒い枝の間から、満天に広がっていた。

水も、食糧もとうに尽きている。

一旦里に戻って補給するべきだ、増援を頼むべきだ、そんなことは百も承知だった。

ただ。

理性が促すその段取りを、テンゾウを失うかもしれないという恐怖が、あっさり押しのけてしまった。

今、自分が里に戻れば、この体調では探索から確実に外されるだろう。



そうして、病院のベッドに縛り付けられてテンゾウが戻るのを待たされるのだ。


カカシは、白い布にくるまれた後輩が担架で運ばれるところを想像して唇をかみしめた。

─あいつに甘えて。何もかも押しつけて。俺は火の中に飛び込んでしまった。

テンゾウがいなければ。カカシはあんな真似はしなかっただろう。いつも、しょうがないですね、と苦笑しながら後を守ってくれた…大事な…

残ったテンゾウに何かあったのか。



あの場に残されていた、不思議なチャクラの残滓(ざんし)
深い怒りのチャクラ。



お前…テンゾウ、どこにいるんだよ。俺に……誕生祝い、くれるんじゃなかったの…?





果てのない悔悟の念にとらわれかけていたカカシは、静かに近付いてくる不思議な…圧倒的な大きさのチャクラに気付き、緩慢な動きで前に視線を向けた。






◇◆◇








それは、忍犬使いのカカシにとって、ある意味、神に似た存在だった。

ひと薙ぎで人の頭など簡単に潰してしまえそうな巨大な足。
カカシの親指ほども太さのある長大な牙。

どこかぬめるような光沢をもつ白い毛皮が、強靭な筋肉に覆われた骨格の上に乗り、その獣の優美な姿を飾っていた。


─お前は神域を侵すものか。



そう問われた、と気付いた時には、すでにその獣の真っ赤な口が、カカシの首筋を咥えこんでいた。
カカシはとっさに逆手に持ったクナイを、獣のトパーズの瞳に凝らした。


しかし、その獣は恐れる様子もなく、自らの瞳に突き付けられた刃を瞬きもなく見つめながら、…嗤った。
その獣の、嗤い方で。



─そのように死にかけの命でも…惜しいと見える。人とは命未練なものよ。己は生き物の命をいともたやすく奪いながら。


大きな「命」そのもののような獣に弾劾されたカカシは、しかし、何の感慨もない。
「…あいつを見つけた…後なら。この体。呉れてやろうよ。喰うなり…引き裂くなり。好きにするがいい。」

─………

「あいつを…取り戻すまで。俺は。死ぬ訳には…いかない…!」

言葉が終るのがはやかったか、閉ざされていた左目が開くのが早かったか。
カカシの、最後の瞳術が発動する、その寸前に……






小さな白い毛玉が飛び込んできた……!







◇◆◇








カカシは、自分が、歩いている自覚すらなかったかもしれない。




傍らでゆっくりと歩を進める白い…森の主にすがりながら、普段のカカシからは想像もつかないおぼつかない足取りで一歩一歩、森の奥へと進んでいく。

不思議なことに、焼け残った森の木々に一度として遮られたこともなく、まるで一本道を歩くように、そこ にたどり着いた。



………




神威を発動しかけたカカシの懐に飛び込んできたのは、あの仔犬だった。

カカシの首を咥えた巨獣の耳に歯を立て、キュンキュン鼻で鳴きながらぶら下がって必死で暴れた。


カカシはとっさに……その仔犬が、自分の首に牙を立てる狗神の前足にかかるのを防ごうと、首が牙に引っ掛けられるのを承知で、懐にかばいこむ。

「…こいつは関係ないっ!!」



カカシはそのあとの事をはっきり覚えていたわけではなかった。
その仔犬が狗神の眷族らしかったこと、どうやらその仔犬に今度は自分が助けられたらしい事。

そうして、何故、自分がこの狗神にすがって、導かれるままに、森の奥へと踏み込んでいるのか…
何も…理性で理解して動いていたわけではなかった。




……………







狗神に導かれてたどり着いた場所は、彼の後輩が、意識の残るぎりぎりまでチャクラを振り絞って木遁で炎をおさえ込んでいた場所だった。




中央に…ふた抱えもある大きな木が。
不思議と焼け焦げもせず残っている。



カカシは、意味もない恐怖にかられた。


巨木の中央に……不思議な…模様が…彫刻のような模様が…浮き上がっているのではないか…?
自分はその…木の彫刻に見覚えがあるのではないか……?



「テ…ンゾウ…?」



カカシは、誰かに聞かれるのを(はばか)るように、小さな声で…つぶやく。


「まさか…お前…?」




百倍もいる敵を目前にしてもひるむことのなかった男が、恐怖に立ちすくんでいた。


「うそ…だろう…?冗談…だよね…?」



知りたくはない。あの男がもう決して自分の元に戻らなくなったのだと。


─先輩!


あの声が自分を呼ぶことは二度とないのだと、知るのが………



怖い。





二匹の白い獣は、呆然と立ちすくむ銀髪の若者の傍らで、じっと月の光にぬれながら彫刻のように佇んでいた…